Re: Re: 某友人
感想、無茶苦茶うれしいです。期せずしてメイキングと個人史をニコイチにしてしまったことで、「ひとつ作ることで一つお気持ち表明する権利が正当化される」ような感覚を覚えてしまった自分もいたりします。だから仰ることはまさに図星でして、今後ささやかな呪いになってくんだろうなぁと思ってます。
オープンソースと贈与文化についてはEric S. Raymond(ESR)著の『ノウアスフィアの開墾』という古典があるわけですが、プログラマーのような(その人が望む限りの生活水準が担保された)余剰さの中に生きる人にとって、評判という見返りが持つ文化力学とその効用は無視できないよ、という話だと理解しています。 文中「義務」という言葉を繰り返し使われているあたり、モースを念頭に置かれて書かれているようにも見受けられました。もしかしたら、部族間の授受と、オープンソースのような個人・対・不特定多数間のそれは幾分様相が違うのかもしれません。実際、ESRのいう贈与は、集団間の安寧や再分配のための暗黙的な社会制度としてではなく、プログラマー自身のエゴや名声に基づく、かなりお気持ち的なものとして描かれていたりします。僕も「ギーク」に「贈与」という言葉の組み合わせを聞くと、ESRが言及する方の贈与のニュアンスを思い浮かべがちだったりします。
メイキングやツールの公開を需給や取引の一形態として語るのは、ESRに言わせればもっぱら贈与経済ではなく交換経済の範疇に含まれます。一方で僕がしてきたことというのは「こっちも差し出したので期待しておりますね」という貸付けをしているんでなしに、独りポトラッチで勝手に自分の評判を高めた気になれる、それなりに自己完結的なものです。もちろんマクロな目では、同じような贈与を社会に対して行うプレイヤーが増えることで、その恩恵に預かることができるという期待はあるのですが、それは僕個人が贈与を行う直接的なインセンティブにはなり得なくて。むしろその逆で、誰も自分の後に続かないことで、一人目立ちすることができるという魂胆すらあります。つまるところ、オープンソース・イデオロギーをある種の作家性のために都合よく引用しているに過ぎないのかもしれません。オープンソースの実践をはなからシーンに期待していないあたり、なんだか一層薄っぺらい気もしてきました。
あのテキストを勢いで書いたのは多分、そのアジテーションっぷりに反して、僕があの業界に期待することはあまり何もない、という諦念からでした。いわんやアーカイブや語り直しをや、です。皆なんだか忙しそうですし。万博とか。たとえかれらの成果物が、歴史からもコミュニティからの記憶から消えようとも、その切断の先にちゃんと凄いものをつくる人たちは現れている。そうした流れのなかで、ドメインの失効とともに作り手の思い出の中で美化された愛すべき成果物を、リスペクトされるべき古典としてではなく越えられるべき屍として差し出せというわけですから、無理なお願いなのかもしれませんね。もちろんその中で今もなお輝くものがあると信じてますが。僕自身、高校時代の作品をポートフォリオの一番下に恥をしのんで載せ続けているのですが、だいぶ限界です。
見返りという意味では、さのさんやセンボーさんのテキストを読めた時点で、自分のなかでは十二分によかったなと思っています。期せずして「取引」が成立しちゃった気がします。
code:test.js
sdfsdf->> // sdfsdfasdfasdf
sdf
sd
d
d
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d
d
sdfasdfasdf
あと、細かい話:
クライアントワークの限界
皆がみんなBTSとかメイキング公開とか真似できるわけではない
契約におおよそこのような条項を盛りこむことにしている
(本XXのメイキングに関する取り決め)
第#条 甲(所属アーティスト: 本XXディレクター___)は、乙の事前の承諾なしに、本XXに関するすべて、もしくは制作に使用された素材、開発されたツール・アイデア等を、メイキング記事として、SNS、ホームページに公開する事ができるほか、マスタークラスや ウェビナー等において、公衆送信、上映など、常識の範囲内で使用することができる。
「残す」ことについても、広告賞への出品という、広告それ自体とは無関係なところへの露出にあれだけ労力を割くことができるのだから、その一部分くらい、アーカイブに向けてもいいのかも?
「そのままの形で残す」だけがアーカイブではない。こうしたメイキングを残すのも、あるいは「動かなくなっちゃったねぇ」と振り返るのも含めて、ふんわりとしたコミュニティの記憶を形作っていくこと自体がアーカイブだと思っていた。…いたんだけど、より厳格な意味での保存や文脈形成、歴史化としてのニュアンスが強く伝わったのは、表現が拙かったなぁと反省している
その辺のテーマは、メディアアートにおいては『メディアアートの輪廻転生』のような展示で触れられているし、インタラクティブ作品の保存についてはRhizomeのような組織がすでに居たりする
外部SNS連携やバックエンドとの連携など、技術的に難しい場合にも、フォールバックを用意することも可能
オープンソースにおける報酬設計
GitHubが生まれる前から、Starや草、NPMによる被依存数のような定量化無しに、オープンソース文化はその中で(少なくともGNU、Linux、Rubyのようなプロジェクトが成功する程度に)インセンティブをもたらす仕組みを自然発生させてきた。『開墾』でも述べられているけれど
Linus Torvaldsはフィンランド、Matzは日本。オープンソースを駆動する力は、アテンション・エコノミーにおける競争主義、あるいはアテンションそのものの疎外や自己目的化というより、しいていうならもう一つのアメリカ的伝統としての対抗文化にアカデミズムの力学が綯い交ぜになったものに近いのでは
良いコピーとは ... その言葉が生まれてからは社会で当たり前に受け入れられる価値観
「たとえ当時の技術水準を想像しながら観たとしても」という一文を添えたのはその辺の気持ちがあったから。文化背景という言葉を加えてもよかったのかも。ただ、そこまで当時の状況を脳内でエミュレートしてもなお、新奇さ以外に、作品としての芯というか強度、感覚的なよさというのは、実はそこまでじゃなかったよね。という話。その理由についてもある程度根拠立てて述べたつもりだけど、結局はdisなのかもしれない…
「凄さが透明化することの美学」はすごくわかる。そこは最近細金さんにも指摘されたけど、自分の考えが至ってないところの一つかも。ただ一方で、それが色んな人らに真似されて、そのテクニックが技巧面やスペクタクルさにおいて更新されたり陳腐化してもなお、純然と光り輝く作品というのは確かにある気がする
けど皆がみんな『トイ・ストーリー』になれるわけじゃないんだから、とも
改めて、岩井俊雄ってすごいねぇ
一方で、真似されづらいオルタナティブを追求することで、凄さが透明化されるのを防ぐという戦略も。その代表例がDavid O'Reillyで
とはいえ、「糸井重里が最初にコピーに『。』を使った」という話し、今聞いても、すごーいとはなりそう
松本人志の造語くらいの感覚で
ボーイズ・クラブ感
「作り手は素朴な『手を動かす奴が偉い』観を抱いている」観
労働価値説の一番しょっぱい実践としての現場主義?
中にはそうした党派的な主張やマウントをする方も居るのかもしれないけれど、大方そこにはプラグマティックな理由が伴っている。CDやPMといった製作サイドへのある程度の理解も示した上で。
清水さんに関しては、テクニカル・ディレクターという職種を確立することで、無理解ゆえの「黒い建物にプロジェクションマッピングする」のような事故を防ぎつつ、製作と制作、フラットに協力関係を気づいていきまっしょい、という穏当な主張
自分に関しては、そこまでコミュニケーションやマネージメントに疲弊するくらいなら、無理に資本や人を巻き込まずとも、分かる人だけでコンパクトかつインディーに作っていけば良いんじゃないか、というちょっとラディカルかつ内向きな立場。たとえAAAタイトルは作れなくとも、世の中に対して強い影響力を持てなくとも、Baba is Youを目指せばいいじゃんけ、と
もちろん、そのシーン、その現場だけにどっぷり浸かってる人には気付けないなにかを相対化してくれる「外」の存在は必要なのだと思う
ある時期の広告系クリエイティブ・ディレクターによるMVというのも、一介の映像ディレクターには思いつけない色んな仕掛けが施されていた。レーザーカッターで生肉切る、撮影に使ったプロップを実際に売っちゃう、とか。
小野さん編集長時代の『広告』もそうだったのかも。いや、他に食い扶持があるからこそ余裕こいてできるチートじゃん、っていう話も版元の方から聞いたりしたけど
自分もまた「外」の人。gen art、parametric design的な知見を映像制作に活かしているし、その逆もやっている。必ずしも映像制作現場至上主義ではない
ただ、その「外」の人があまりに力を持ってしまったのが現状であって、それによる弊害をかつて清水さんは制作会社出身の人間として問題提起をされていた。
そして僕はというと、企画と制作という分業や、そうした体制が前提とする還元主義的なアプローチによって探索可能な面白さの可能空間は、それなりに掘り尽くされたのではないか、という考え
かつてのソフトウェア産業の世界における、SEによる仕様策定と下流プログラマーによる実装という分業体制と似た構図。昨今はというと、コードそれ自体が仕様についての自己説明として機能している(self-documented)のが合理的よね、という考え方が主流。考えることとつくることの同一化
同様に、言語的、分析的な理解ではたどり着けない、手を動かしながら考えるゆえの全体論的なアプローチというのは、見直されてもいいのでは
新しい表現の発端となる興味は得てしてnerdyかつ地味
北海道の街区、モノタロウ/ミスミ的aesthetics、Gコード、CAM、Lisp、Gerberファイル、三角関数ベジェが今アツい
ラスベガスのSphereより俄然アツい
ただあくまでバランスの話。教条的に「経験的、構成論的理解をしてる奴が偉い」という話ではない
いや、にしたって、こっちの可能性が深すぎて最高、というのが本音